偉大な後輩


(左が目黒学院監督幡鎌氏・右が法政OB会幹事長中村氏)
法政の2学年後輩に幡鎌孝彦という目黒学院(元目黒高校)の名物監督がいる。
目黒学院といえば昭和40年代、花園の決勝戦の常連だった。
当時、闘将梅木恒明監督が率い、10数年の間に全国大会優勝 5回 全国大会準優勝 5回の記録を残した。
昭和40〜50年代の高校ラグビー界は目黒高校の独壇場の歴史と言っても過言ではない。



その昭和43年〜45年までの全国大会に全試合出場(15試合)
1年準優勝 2年準優勝 3年優勝という実績を残した男がいた。
目黒学院現監督の幡鎌孝彦だ。


銀、銀、金だ!


ラグビー界では公にされていない偉大な記録なのだ!


因に2位は天理高校元監督の田中氏だ。確か銅、銅、金かな?(間違っていたらゴメンナサイ)


1年から3年まで花園で決勝まで全試合に出た選手は未だ聞いた事が無い。しかも3年の優勝時には決勝のゴールキックを決めたのだ。このゴールキックが目黒高校に初優勝をもたらした。


彼は中学時代走り幅跳びで(千葉県)優勝した。それが梅木恒明監督の眼に留まり目黒高校に誘われたという。
本人は陸上競技をしたく目黒高校に入った。(陸上部のOBには100m日本記録保持者の飯島選手などがいた)
梅木先生からは『ラグビーと陸上を両方やらしてやる』と言われたという。
 


中学を出たばっかりで何も知らない千葉県八街の幡鎌少年は入学して直ぐ陸上部の部室を訪ねたところ、陸上部には席は無く、梅木先生はラグビー部の監督だったのだ。『だまされた』と気がついたときは後の祭りだった。
翌日から合宿所に入れられ朝から晩まできつい練習と仕事が待っていた。




そのせいか純粋で可愛かった幡鎌少年は卒業時には反抗的で眼付きが悪くなりヒネテいったのだ。(ここはジョーク)



その幡鎌孝彦が全国制覇の勲章を持ち鳴り物入りで法政に入学して来た。




小さい身体で激しいプレーをしていた事を思い出す。
一時、レギュラーを外された時『僕の方が上だ!僕を使わない監督が可笑しい』と僕に談判してきた事もあった。



練習試合で相手チームのキャプテンのラフプレーに怒り、彼の激しいプレーで両チーム険悪な雰囲気をつくったのも幡鎌だった。
『相手のラフプレーに我慢出来なかったんです。だから機会を狙ってたんです。悪いのは相手です』と執念深い勝ち気な2年生だった。



もう一度幡鎌先生の率いた目黒学院を花園で見てみたい!


あの強い目黒を待っているファンの為にも、、、。


そして久々に八街の落花生を食べたいもんだ!見てるかな〜〜〜?。