母との思い出1

今、88歳の母親(恵美子)が御所野の『あいのもり』のお世話になっている。現在、ウイルスが蔓延している為に面会は出来ない。


戦中に満州鉄道に勤務していた親父(鉅太郎)と縁があり満州で結婚した。
母は小学校の代用教員をしていた。
兄をお腹の中入れたまま満州からお婆ちゃんと母の弟と私の親父と4人で引き上げて来た。腰から鍋や布団をぶら下げて全ての財産を捨てて帰って来たと言う。
上野駅でお婆ちゃん(東美子)と弟(和光)との別れが21歳の母には悲しくって悲しくって仕方がなかったと言う。
東京で生まれた母が当時の縁者の居ない秋田に来る事がどれだけ心細かったのだろう!

また、このお婆ちゃんが豪快な方で生粋の江戸っ子で日清、日露戦争で戦った陸軍大学出身の将校の娘であった。敗戦が決まり中国の蒋介石軍の兵隊がふすまから畳やタンスなど持って行ったと聞いたお婆ちゃん(東美子)、軍司令部に行って『お前達はプライドは無いのか?泥棒みたいな事をするな!言ってから持って行け!』と言ってきたらしい!
部隊長が後で詫びて返還して来たと言う逸話がある。僕は小さい頃『このばあちゃんはただものではない!力道山よりも強い人だ』真剣に思っていた。(笑)


母は5人の子供に恵まれたが僕の直ぐ下の妹、綾子を3ヶ月で亡くしている。
母の人生で親父を亡くした時と綾子を亡くした時は彼女の人生で最も淋しかったのではなかったろうか?
今でも毎朝、仏壇に向って語りかけたり、歌を歌ったりしている。今でも父を愛しているのだろう。毎朝水とお茶とコーヒーを仏壇に供えるのが僕の仕事なのだ。母のチェックが厳しい。(笑)


母は毎朝5時頃に起き、商売の帳面を整理し、そして親父と市場に仕入れにいき、僕たち4人にご飯を準備し、学校に行く僕たちを店先で大きな手を振って見送ってくれていた。
無頓着で大らかだった僕に凍ってる容器に入った豆腐を見せながら『哲ちゃん、豆腐一丁売っていくら儲かると思う?1円だよ!』って言っていた。
無駄遣いは出来ないな!と思った記憶がある。この思いを守っていない(笑)


母は大病し、何度も入院している。腎臓結石、小関節炎、心臓、もうダメだと言われながら回復した事も二度ある。
冷たいコンクリートの上でスリッパで仕事をしていた母の足裏はガチガチで石のように固かった。僕と違って『痛い』という言葉を使わない人だった。『大丈夫』が口癖だった。そして『ありがとうございますって何度も言うと痛みが消えるんだよ。感謝するといいんだよ』


今でも家の中に『ありがとう!ありがとう!ありがとう!皆でありがとう』の張り紙がしてある。


僕が中学校→高校と虚弱体質であった。腸が弱く太れなかった。母は毎日ニンニク酒をカプセルに入れて小さな瓶を持たせてくれた。スポイトでカプセルにニンニク酒を入れてる母の姿も忘れられない。

現在も暴飲暴食以外の病気をしないのは母のお陰と感謝している。


続く!