40年前の思い出をつまみに!

数日前、京都から突然連絡が入り、秋田に酒飲みにいくぞ!と連絡が入った。廃業、失業、休業している俺は『どんなスケジュールでも対応出来るから大丈夫』と返事した。

13時に秋田駅に着いた時に既に酔っていた。(車中で一杯)


彼は法政の同期で昭和47年から数年全日本のスタンドオフとして日の丸を背負っていた。確かウエールズ戦を後に25歳ぐらいで引退した。まだまだこれからという時だった。NZ、イングランド、フランス、スリランカウエールズ、、、、などを遠征後、ジャパンの合宿を辞退した。


その年、僕と一緒に菅平で飲んでいた記憶がある。『もったいないからやれよ!』と言ったら『俺の考え方と違うねん』と一言で終わった。


大学の4年生の時は彼がスタンドオフで僕がフルバックでそのシーズンを戦った。彼のサムライ的な思考回路が俺との間に強烈な思い出を残してくれた。


新人の頃、二人とも悲惨な毎日だった。当時、法政は足が速くても名物のランパスについて行ける新人はほぼいなかった。瞬間スピードとスタミナの違いが上級生とは段違いだった。遅れても遅れてもインゴールでボールをもらい、デッドゴールラインまで走った。まして二人ともスピードが無かった。お互いに死にそうな顔をして走っていた。そして体重が60キロ代まで痩せた。(明日のジョーの力石とおる状態)


そのキツイ経験が2年になるとラインに遅れなくなり、試合に指名されるようになっていた。


また、同期の脱走が相次いだ!深夜から早朝にかけ、皆が寝静まった頃に合宿所からカバンひとつで、逃げていくのだ。
逃げれるヤツは羨ましかった。秋田から来た俺には帰る所が無かったのだ。


井口は東山高校から初めての入学だった。これから受験する後輩の為に脱走出来ないと思っていたのだろう。
新人の時の笑顔は記憶に無い。



上級生からの理不尽な命令に『ハイ』と答えるしか出来ない毎日、脱走した彼等の気持ちが解らない訳でも無かった。


脱走者が出る度に増えていく仕事の量。
合宿所全員の布団の上げ下げ、部屋の掃除、周りの掃除、洗濯、食事当番、グランド整備、備品の準備、マッサージなどなど。(今の法政は民主的で脱走者はいない)


『また◯◯が逃げたぞ』と言ってはため息をついたものだ。


菅平の合宿へ向かう途中に、上野駅で自分の田舎へ向かう列車に飛び乗り、帰って来なくなった仲間も数人いた。いなくなった連中は今、どうしてんだろう?会いたい気もする。


30人程の同期が7人に減っていた。

井口っあん、身体を大事に!

楽しかった!
また飲ろう!



道川のレストランで



男鹿の入り口で



寒風山で



イカ焼きを食べながら(この後に出てくる)
ここで先輩の教え子、佐藤君とディフィーユ社長の清水君と遭遇!



カラオケで藤田氏



酒の勢いで!


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ご機嫌の3人このあたりから記憶が?



下は42年前の二人で十和田湖へ行った時
このハンサムだった?二人が、、、。年月は怖い↑