愛の反対は憎しみでは無い。愛の反対は無関心です(マザーテレサ)

 「愛」の反対は普通に考えれば「憎しみ」のように思えますが、マザーはそうではないと言います。なぜなら、「憎しみ」はその相手が自分にとって意味がある人、大切な人だからこそ起こる場合が多いからです。「可愛さあまって憎さ百倍」と言いますが、本当は自分の思い通りに動いてほしいのに思い通りにならない、自分を大切にしてほしいのに大切にしてくれない、そんな思いから「憎しみ」が生まれてきます。ですから、「愛」と「憎しみ」は反対というよりもむしろ表裏一体のものだと言えるでしょう。一番憎かった相手が、仲直りした後は一番大切な友だちになるというのもよくあることです。

 むしろ「愛」の反対は、誰かに対してまったく関心を払わないこと、その人の存在を無視することだとマザーは言います。道端で人が倒れていても、まるで石が落ちているかのように見て気にもとめない、どこかの国で災害が起こりたくさんの人が飢えていると聞いても、自分の会社や家族のことばかり考えていて聞き流す。そんな態度こそ、「愛」の正反対だとマザーは言います。「愛」の反対は「無関心」なのです。

 「愛」の反対が「無関心」だとすれば、「愛」は誰かに関心を持つことだと言えるかもしれません。道端で倒れている貧しい人に関心を持ち、その人の苦しみに共感すること、それこそが「愛」の始まりでしょう。苦しみに心から共感すれば、その人のために自分を犠牲にしても何かをせずにいられなくなるからです。

「愛は同情に似ている」という言葉がありますが、むしろ「愛は共感から始まる」と言っていいのではないでしょうか。先日、ダライ・ラマがある講演で「マザー・テレサは全人類にとって共感の模範だ」と言いましたが、マザーは全ての人の苦しみに共感し、そこから愛を始めた人でした。


ブログ『道の途中』から引用