再掲載 2003年に出した【新春企画、俺達の旅】というタイトルで出した年賀状

ブログのネタを探していたら7年前の年賀状の原稿が出てきた。虫眼鏡でしか見れないような年賀状を出したのだ。某先輩との旅を綴った。あまりにも文字が小さいとひんしゅくを買った人もいた。楽しかったと評価してくれた人もいた。長文なので飽きたら読むのを止めて下さい。



【新春企画、俺達の旅】
2002年の12月30日夕方、大阪、花園ラグビー場に向かい、二人のラグビー狂いの中年が廃車寸前のライトバンに乗り、秋田を旅立った。4人で出発のはずが二人が寸前で乗車拒否、皆に『この車では絶対に大阪には着かない』と言われながら二人だけで(冒険家・植村直巳モード)出発した。


確かにこの車を人間に例えると90才を越え、糖尿、高血圧、心臓、痛風などの全ての成人病を患っていた。私も乗車拒否しようと思ったが、その車(廃車寸前)を愛している先輩を1人で出発させる訳にいかず、知人、友人、家族の猛反対を無視し、死のロードを決断した。失う者が何も無い先輩と、事業家???の私とは事情が違っていた。


早くも出発寸前にバッテリーが上がっていた。先が思いやられる。
その車は湾岸戦争で砂漠に放置された装甲車の様相を呈していた。サイドミラーはガムテープでかすかに止まっていた。全身テーピング状態である。他の二人は電車に変更、如何に危険な車かが想像できると思う。


コンビニとガソリンスタンドで道を聞きながら16時間かけて花園に到着、長〜い道のりだった。出発前あれほど、皆に注意されたガソリンチェックを忘れ、気がついた時、ガソリンランプがつき、メーターがゼロになっていた。(運転は私では無く勿論先輩)


ガソリンがいつ切れるか解らない。運よく走行している場所が高速道路の山の頂上であり下り坂にさしかかったところであった。思いきって130キロまでスピードを上げ、ギヤをはずし、惰性だけで走った(下り坂)。先輩が考えた省エネ走法である。もし、上り坂だったら確実にガス欠だったろう。



警察が取り調べで白状させる時に誉めているシーンを見た事がある。
先輩の天性の対応能力を誉めた。
誉められて気を良くした先輩は素直に省エネ走法は2度目だと白状した。(やっぱり)



正月の早朝の3時頃、極端に車が少ない事が幸いした。省エネ走法ののろのろ運転でも他の車の邪魔にならなかったのである。連続して長いトンネルがある北陸だった。止まったらと想像するとぞっとした。勿論、後輩である私が携帯の通じるところまで車から降りて走らなければならない。神にも祈る気持ちであった。この先輩はこういう時にだけ、先輩、後輩の関係を大切にする。


ガソリンスタンドが見えた時、二人で万歳をし、ガソリンのチェックはきちんとしようと誓いあった。忘れていた空腹をそばで満たした。当然支払いは先輩持ちだ。


そして携帯に充電をした。両者カウンター横のコンセントに10分ほど差し込んだ。準備万端である。さわやかな気持でアクセルを踏んだ。1時間後、先輩が大きな声で『無い、無い、無い、携帯がない』と叫んだ。充電したまま、忘れてきたらしい。


次のインターで降りてUターン、そして反対方向へ走った。そしてまたUターン、このロス、3時間、二人の間にため息としばらく会話が途絶えた。長い沈黙が続いた。こういう時、後輩としては、先輩への批判を言っちゃいけない。先輩後輩の2年の差は大きい。先輩が100才の時、私は98才なのである。永遠に追い越す事は出来ないのである。基本中の基本である。鉄則である。勿論、先輩は謝らなかった。後輩としては、文章にして、知人に伝える事により、ウップンを晴らすしか無いのだ。


この関係は私が先輩と不運にも知り合った35年前から不変なのだ。この文章の事は先輩には内緒である。勿論、この2つの事件でガソリン代は先輩持ちである。暗黙の了解事項だった。


その後、先輩は『疲れたから運転交代』と言って道の解らない私にハンドルを譲って、後部座席に移動した。『真直ぐいけばいい』と一言いった。その瞬間、熟睡していた。都合が悪くなると眠くなるらしい。35年前から。。。


大阪に入り、先輩を起こした。2時間程寝たせいか過去の事は完全に忘れていた。『この車と俺がいなければ、お前は花園に来れなかったんだぞ!有り難く思え!』と高飛車に言った。ガソリンの事も携帯の事もやはり忘れていた。


寝ると全てを忘れる都合のいい性格なのだ。ラグビーはプレーの激しい選手はよく脳震盪を起こす。先輩も学生時代、脳震盪を起こしていた。忘れるのはそのせいなのかも知れない。


花園ラグビー場の駐車場で1時間の仮眠をとった。起床して車の脇で歯を磨いていた窓ガラスに写る先輩を見て、東京で見たホームレスとダブって見えた。


グランドに入った時、秋田の後輩が僕を見つけ、“◯◯先生の車を駐車場で見つけました”あの車で花園に着いた事が奇跡かのように眼を真ん丸にして教えてくれた。あの車に一緒に乗って来た事はとても恥ずかしくって言えなかった。


その後母校(秋田工業ーー残念ながら敗退)の応援をし、監督、現役、コーチを慰労し、翌日の法政大学 対 早稲田大学(国立競技場)為に東京へ向かった。その時、尊敬する先輩と遭遇した。静岡で麺製造を経営している勝又先輩であった。その時、運が向いて来たと感じた。勝又先輩は逆に、我々の顔を見た時、運がなくなって来たと感じたに違い無い。実は宿泊先が何も決めてなかったのである。車の中で就寝する予定だったのだ。


その夜は勝又先輩のご自宅(静岡の御殿場)に突然お邪魔し、お風呂を頂き、美味しい生そばを御馳走になり、お土産まで頂いた。
先輩はよその家に泊まっても自分が其処で生まれたかのように振る舞う事ができる。いや自分の家より態度がデカイ!


翌朝、勝又先輩の先導で無事東京四ッ谷の武村先輩のご自宅に到着した。勝又先輩の車に乗りたかったのだが裏切る訳にいかなかった。迷惑だが僕は先輩に信頼されているのだ。


九州、関西、四国、東北から沢山のOBが集まっていた。そしていざ国立へ、残念ながら、早稲田に破れた。この先輩、法政のOBでありながら、早稲田のトライに拍手をしていた。非国民と言われても仕方が無い態度であった。
対戦相手の早稲田に先輩の若い頃に似た選手が二人活躍していたのだ。親を越えた内藤兄弟(仮名)だった。
心の広い法政のOBはこの拍手を許して頂きたい。逆に母校愛の強い私は後輩達のうなだれた姿に目頭を熱くした。学生の健闘を称えながら、来期に期待し、深夜まで痛飲した。ご子息が早稲田で活躍していた先輩は何故か底抜けに明るかった。


翌朝、東京のOBに見送られながら雪の秋田へ出発、2200kmを走り切った。後輩達のゲーム結果を除けば、楽しい弥次喜多道中だった。先輩のミスを心の中で非難した事を深く反省!


沢山の人間に否定され続けたあのオンボロ車にも愛着が湧いた。しかし翌日先輩が出勤途中、エンジンが止まり、静かに寿命を迎えたという。寿命がもう1日早かったらと思ったら、ぞーっとした。2200km踏破はオンボロ車の最後の勲章となった


【新春企画、俺達の旅】はフィクションであり登場人物は実在しません。

本文のお二人とここに映っている人物写真は一切かかわりありません、、、。


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